町の「生き字引」と呼ばれる某八百屋さんが「オラのガキの頃にはよう…」と仰ることには。
むかし、むかし。それは昭和のはじめ頃。
古くから商人街であった一番町と、今でいうビジネス街であった国分町を結ぶ「横丁」として、「虎屋横丁」には料亭や寿司屋さんなど、たくさんの美味しいお店が軒を連ねておりました。
そのはじまりは定かではありませんが、一説には藩政時代の末頃と言われています。
角地に「虎屋」という薬屋さんがあって、店先に虎の木彫りを置いてあることからそう呼ばれることになったのだとか。
一方その頃、国分町と一番町に面したお屋敷の「裏通り」、それが現在の「稲荷小路」です。
裏通りですから、道幅も現在よりずっと狭く、近隣に従事する職人さんや女中さんが寝起きする長屋の出入り口が並んでいたのだそうです。
やがて、戦争が終わって昭和22年。仙台市が打ち出した都市計画により稲荷小路を飲食店街として整備することが決まりました。
その際に「美味しい横丁」として既におなじみであった虎屋横丁の旦那衆が、新しい稲荷小路への出店誘致に尽力されていたのだそうです。
こうして道幅を広くし、街路灯を設置し、生まれ変わった「稲荷小路と虎屋横丁=イナトラ」は、新しいひとつのグルメ街として発展を続けて来たのです。 | その奥に小さなお稲荷さんがひっそりと祭られてあり、「お稲荷さんへと通じる裏通り」ということで「稲荷小路」と呼ばれるようになったのです。 |