町の「生き字引」と呼ばれる某八百屋さんが「オラのガキの頃にはよう…」と仰ることには。 むかし、むかし。それは昭和のはじめ頃。
古くから商人街であった一番町と、今でいうビジネス街であった国分町を結ぶ「横丁」として、「虎屋横丁」には料亭や寿司屋さんなど、たくさんの美味しいお店が軒を連ねておりました。
そのはじまりは定かではありませんが、一説には藩政時代の末頃と言われています。
角地に「虎屋」という薬屋さんがあって、店先に虎の木彫りを置いてあることからそう呼ばれることになったのだとか。
一方その頃、国分町と一番町に面したお屋敷の「裏通り」、それが現在の「稲荷小路」です。
裏通りですから、道幅も現在よりずっと狭く、近隣に従事する職人さんや女中さんが寝起きする長屋の出入り口が並んでいたのだそうです。
やがて、戦争が終わって昭和22年。仙台市が打ち出した都市計画により稲荷小路を飲食店街として整備することが決まりました。
その際に「美味しい横丁」として既におなじみであった虎屋横丁の旦那衆が、新しい稲荷小路への出店誘致に尽力されていたのだそうです。
こうして道幅を広くし、街路灯を設置し、生まれ変わった「稲荷小路と虎屋横丁=イナトラ」は、新しいひとつのグルメ街として発展を続けて来たのです。

その奥に小さなお稲荷さんがひっそりと祭られてあり、「お稲荷さんへと通じる裏通り」ということで「稲荷小路」と呼ばれるようになったのです。

イナトラをご通行中の皆様、どうぞ頭の上をご覧ください。 今、路面を煌々と照らしている街路灯は、電灯設置時期は、平成25年5月に新設されたものです。
我が町内の街路灯は仙台唯一の市道に立つ町内会所有の街路灯であります。
先達の言い伝えによりますと、昭和20年頃は食糧難の酷い時代でした。
当時イナトラは食べ物屋のバラック屋台が並ぶ闇市でしたが、朝になると食べ物を求めて息絶えた餓死者が毎日のように倒れていたのだそうです。
そんな状態に心を痛めた町内の人達は、せめて町を明るくしようと各戸に自前の街路灯を立てたのです。
昭和25~28年の街路整備に伴い現在の道路が完成したのですが、街路灯はその市道に残り、柱が4回、灯りが7回かけ替えられて現在に至っております。
特に先の街路灯は、50年の間2度の大地震にも耐えた街路灯でした。
安心・安全は街の「かなめ」です。
この光がなくなれば、街の安心・安全は守られません。
光はLEDです。
ECOで明るく、そして神社のある街をコンセプトに完成を見ることが出来ました。
着工に至るまでの仙台市の御指導に厚く感謝申し上げます。
そしてここに光を灯した先達方、この光を守った先輩方に感謝すると共に、新しい街路灯の下でこのイナトラが更なる発展を遂げることを祈ってやみません。

街頭変更前

街頭変更後